今回のブログの内容はちょっとタブーなことかもしれないと思いつつ。
私は祖父が浄土真宗の僧侶だったこともあり、どちらかといえば「基本無宗教ではあるが、何か1つ聞かれれば浄土真宗」ぐらいの宗教観なのですが、世界的に見ると日本のような無宗教の人が多い国の方が珍しいそうです。
私も長く生きてきまして、がっつり信仰されている知人もおりますが、どちらかといえばそういう人は「表面は非常に穏やか、でも内面では誰が何を言おうが聞かない、譲らない」印象を持っています。
私としては、祖父の影響もあり信仰することはその人の生きる道しるべになるのでしょうから、私の人生を邪魔しないのであればお好きにどうぞと思っています。
キリスト系宗教の信じている知人が「教会のクリスマスパーティに来て欲しい」とお誘いを受けて、そういえばクリスマスを教会で過ごしたことなんてないし、一度行って見るかと思って行ったことがあります。
普通のキリスト教かな?と思って行ったのですが、参加すると割と新興宗教っぽい印象を受けました。初めて来た私に対し、信者の皆さんは温かく受け入れてくれまして非常に優しい。やっと自分を認めてくれた場所みたいに感じました。
夫の死後数年経過し、まだ心の傷が完全癒えていない私は「もし数年早くここに来ていたら私も信者になっていたかも」と冷静にその場を見ていました。
私には「祖父」という軸があったため、優しい言葉を掛けられてもこの宗教に入信することはないのですが、そういう軸もなかったらどうなっていたことやら。
たぶん、宗教に入信する人は心のどこかで自分を認めてくれる、受け入れてくれる場所を求めているからと思いました。この人たちも世間の荒波に疲れ果て、何か背負ってここに来たんだろうと思うと、この宗教を信じることでその人が幸せならばお好きにどうぞと。
想定内ではありましたが、参加後知人から「教会のみんなも来て欲しいと言ってる、会いたいって言ってるよ」のお誘いがしつこかったので安易の参加はしてはいけないと勉強になりました。
それからは知人が宗教に入っていると言われると、どういう系統なのか(仏教ならどの宗派なのか)をホームページで確認することがあります。
知人が信仰している宗教の教えの1つが
「お金を持つことに執着せずに、お布施をすることで功徳を積みましょう」といった文字が書いてありました
ムムム?これってちょっと怪しい感じがすると言いますか…。きちんと書いてある所が潔いといえば潔いのですが、知人に対し「大丈夫かしら」と思ったのは言うまでもありません。
知人から見て、私はそんな多額のお布施ができるような人に見えたのかしら?銀行以外は私の貯金額は知らないはずなんですが、必死に貯めていたの見抜かれたのかな(笑)
これは余談ですが、元上司がGoogleであまりにもカルト宗教ばかりを連続で検索したことがあったらしく、危険なことを調べていると判断されて、これ以上検索できないようにロックされたらしいです。調べる時は1回につき1宗教にした方がよさそうです。
今回伝えたい事
信仰は自由、信仰しない自由もある